🥺はれま🥺

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6才のボクが、25歳になるまで。

うーっす、ホモガキ諸君。

台風だの豪雨だの結構ヤバめな感じやったけど、元気しとった?俺はといえば、元気からは程遠い状態の夏を過ごしておったよ、まったく。具体的には、盆休みに風邪でブっ倒れて、ホモフレンズとのオフ会の予定を全部キャンセルした。こんなつらいことはない。代わりにやっとったことといえば、実家でクソガキどもの相手。こう見えても(どう見えてるか知らんけど )、俺は末っ子やから、所謂甥っ子や姪っ子が結構いて、帰省して、ホモフレンズとオフ会をしていないときは、ガキンチョどもの相手をしとる。

映画「6才のボクが、大人になるまで」を知っとるか?少年が大人になるまでを描いたフィクション作品なんだが、特筆すべきは、ほんまに撮影に12年かけて、同じキャストが6才から18才までの役を演じてるってこと(主人公の少年だけやなくて、他のキャストも同じ!)。そういう触れ込みで何年か前に話題になったから、この前見るまで、ドキュメンタリー的な作品なんかな?って思ってたんやけど、これほんまに100%フィクションとして描かれてんねんな。同じキャストが演じるって要素は飽くまで映画に説得力を与えるものとしてのみ働いている点がクールやなって思った。

Boyhood(少年時代)という原題のとおり、主人公の少年が成長していく様を見せる映画なんやけど、俺はむしろ周りの人間が老け込んでいくのが末恐ろしい映画やと思ったよ。主人公の母親は3人の夫を捨て、家も売って、家財も売り払った。ラストでは末っ子の主人公は独り立ちした。「私に残ったのは、あとは≪葬式≫だけよ」とヒステリーになるシーンは笑うとこだったのかもしれないけど、もらい泣きしてしまった。彼女が、2時間半のなかで、リアルに老け込んでいく(実際に12年経ってるから当然だけど)のが凄まじかった。母親を演じたパトリシア・アークエットは本当に素晴らしい。

「なんでみんないつも≪一瞬を逃さない≫(Seize the moment)って言うんだろ。私はそうは思わない、逆なかんじがする。こんな感じ、≪一瞬が私たちを逃さない≫」。

「時間は途切れない、それは今ある時間のことだ」。

このラストのセリフがこの映画のエッセンスになっとる。ちなみに、「Seize the moment」は「チャンスをつかめ」って意味なんだけど、ここだけでmomentがポンポン出てきて、チャンスとはまた違ったニュアンスだったりするので、漠然と「一瞬」と訳した。

経済学者のタイラー・コーエンを知っとるか?この人は、なんでか知らんけど、「あなたの人生を表現するとしたら、どんな言葉?」とかいうよくわからんアンケートを取ったらしいねん。そしたら、ほとんどの人は「旅」とか「闘い」とかって答えたらしく、「支離滅裂」とか「滅茶苦茶」とかって答えた素っ頓狂はほとんどおらんかったらしい。

人間っていうのは、処理できる情報だけを認識して、それらを意味的に関連づけて、記憶に落とし込む、、そういう傾向がある。

俺らは、連続した時間の中に、「これ!」っちゅう一瞬を見出して、一つの物語にしてしまう。それは真実よりずっと説得力のある「わかりやすい物語」かもしれない。「6才のボクが、大人になるまで」っちゅー映画は、チャンスやイベントではなく、日々の連続した一瞬が、俺たちを形作るって言いたいんやな。この連続した一瞬は、決定的なチャンスやイベントではない意味のない時間の流れなので、カオスな時間と言える。

とはいえ、この映画やって、結局は一瞬を切り貼りして作られた物語やねん。12年間のリアルな時間を切り取って作られたとしても、結局はその中の一瞬に意味を引っ付けて作られた映画なんよね。主人公が継父のDVを受ける瞬間、その継父の家を出る瞬間、これらは決定的に彼の人生を形作る。そういう風に描かれている。

でも、そうしないと俺らは人生を記録に残すことができない。誰の記憶にも残らない。ブログに日記も書けない。

この映画は、物語という形式を取りながら、物語を否定している。人生の本質はカオスなんだと、敢えてドキュメンタリーではなくて、フィクション=物語で示している。まったく素っ頓狂な映画である。

実家に帰るたびに、ガキンチョどもに会う。会うたびにデカくなるのを見て、自分も親も兄弟も、どんどん老けていくんだと感じる。ガキンチョどもがチンパンフェイスだった頃から、今まで、時間が流れたということである。そして今、ブログを書いて、その時間から一瞬を切り出しているのである。

おわり。